自分のキャラと解放率の話
先日の日記に少し出た「自由な自分100%で生きるのもどうかな」の話にからめつつ


人は年を取るにつれアクが強くなり、誰しもマイウェイになっていく。
いい意味でも悪い意味でも。(例:おばちゃん)

私も「私らしく」とかいちいち考えることがなくなってきたのは
その恩恵をあずかり出したからかなー

今はどうか分からないが若い頃は人によって
私のイメージは若干異なっていたらしい。

おとなしい・普通・毒舌・鬼・・・等。
これらは全部他人から見た私の感想。

おとなしい人と鬼とでは随分印象違うが
もちろん私という人格は一人しかいない。

なぜ違うのかってそりゃ
相手によって自分のキャラを変えているから。

別に意識してそうしてるわけではなく
気付けばそうなっていた。

それを私は「己の解放率の違い」だと考えている。

自室やトイレなど誰もいない、誰も見ていない場所では
自分解放率100パーセント。

好き放題やっている。
普段私は人前で歌ったり踊ったり怒ったり泣いたりしないが
それ全部やっている。

そこに誰か他人が加わると解放率が下がる。
私の場合人と接する時に100%のまま、ということはない。

家族や親しい友人なら70〜90。
それが「普通に友達」→「あまり親しくない人」→「単なる知人」→「通りすがりの人」
となるとどんどん解放率は減っていく。

おそらく相手との公約数を探っている。
仲の良いもの同士ならお互い知れた仲なので公約数も大きい。

今でこそ初対面の人とでも大して解放率を下げずに接してられるが
以前は、特に合うところがない人や一度に複数と介する場面となると
公約数は小さくなる一方。

ヘタすりゃ2や1なんてことになる。
己の解放率が2や1ってそりゃ己も何もない。

いろんなものを削ぎ落としたソツのないタダの人、だ。

大勢でわーっと初対面の人と会った後
その人が私のことを覚えていないとか

学校の中で私を認識して覚えてる人が一体どれだけいただろうとか
顔に特徴がないせいかと思っていたが(いや、それもある)

まぁ要は大人数の中で解放率を下げまくっていたからなのかもなーと
大人になってから気付くのであった。

かと言って人から見た印象で「鬼」に1票入った私が
一人でいる時の100%フリーダムな私で人と接すると
覚えてはもらえるかもしれないが
それがいい意味でか悪い意味でかの保障はないので
やっぱり程々でいっか、という結論に至った。
【2008/03/17 02:04 】 | ちょっとした話 | page top↑
鈴虫寺と無事故の話
先日の日記に少し出た願いが叶う地蔵さんのいる鈴虫寺の話なんぞからめつつ・・・


京都にある通称鈴虫寺こと華厳寺
1つだけ願い事を叶えてくれるお地蔵さんがいるらしいという話を友人に聞き
切羽詰っていた私は数年前日帰りの強行突破(往復バス約6時間)で行ってきたのであります

何でもそこは秋しか鳴かないはずの鈴虫が1年中鳴いていて
お寺の入り口に立っているお地蔵さんに願い事をすると
いずれ願い事した人の家を一軒一軒お地蔵さんが歩いて回り
お地蔵さんが来ると願いが叶うという、そういうしくみらしいんだわ

まず願い事の仕方の説明を兼ねた住職のお話を聴いた後お守りを購入し
各々お地蔵さんにむかって願い事をするんだが
願い事はする本人がその場にいなくてもいいという許容の広さ。

それならばと当時中型バイクの免許を取った妹が事故りませんようにとか
妹の分も願っておこうかと思ったが止めた
(叶う系の願い事じゃないからとかそういうことではなく)

身内の私が言うのもなんなんだが妹には私よりはるかに漫画描きの才がある(ぎゃふん)
私は彼女の新作を常に待ちわびているのだが
当の本人はすでに漫画を描くことには興味がなく、一向に描く気配なし・・・

そんな妹がもしバイクで事故でもして入院したとして
心機一転(もしくは暇つぶしとも言う)に漫画を描いたりはしないだろうか
(もちろん死んだり意識不明になるような事故だとそれ以前の問題だが)

後々「あの事故がなければ今頃漫画描いてなかったわー」
なんて言う日が来ないとは言い切れないじゃん!

事故はしたけど結果オーライ?!

そんな事が頭をよぎって妹の分の願い事は止めたんだ、と帰宅してから母に告げると
「それは私も考えた」だと。

バイク→事故→入院→ベッドの上で漫画

どんな薄情親子だ!と言いたいとこだが別に事故れと言うわけではなく

つい何事もありませんようにと願ってしまうけど
果たして本当に何事もないのが良い人生なのかなってこと

何事かあったとしても、それをものにして
結果オーライにしてしまえばいいんじゃないかと。

間違った道ってやつを選ばないようにするよりも
結果オーライにできる自分になった方がお得な気がする
どうせ結果オーライになるなら何でもござれ

さて、京都から帰ってから私に母が
「鈴虫寺どうだった?効きそうだった?」と聞いてきたので

「うーーん地蔵が来たら願いが叶うっていうのはつまり
 地蔵が来るまで必要最低限のことは続けてなきゃいけないわけよ。

 鈴虫寺には相撲取りも次の場所で勝てますように、とかお願いに来るらしいけど
 地蔵が来る前に相撲辞めてたら意味ないじゃん?
 赤ちゃんを授かりますようにって願っても地蔵が来る前に離婚してちゃやっぱり意味ないし。

 鈴虫って一年中鳴かせようと思ったら温度を保ったりとか結構大変なんだって。
 それを冷暖房のなかった時代に住職が成功させたってことで
 諦めずに頑張ればいつか叶うっていう象徴として
 『鈴虫寺の地蔵に願いをすれば叶う』っていうんじゃないのかな

 だから地蔵の前で願い事をするのは
 決して諦めませんっていう誓いをたてるってことなんだろうね

 だったら結局自分の力で叶えるのに地蔵のおかげになるんだから
 ちょっとは協力してくれよ、地蔵!と思った」と話したら

そこまで分かってて行くんだ?と言われた。

あぁ行きますとも!
頼りますとも神頼み!
【2008/03/07 02:54 】 | ちょっとした話 | page top↑
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